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1945年8月8日にソ連が対日宣戦を布告、8月9日には満州と樺太に侵攻した
(上)樺太島民慰霊「氷雪の門」である。かえらぬ望郷の念、無念にも没した
幾多の霊を慰めるために、昭和38年8月に建立
北海道へ緊急避難することが決定したが、大泊港から8月13日から輸送を
始めた
港に行くまでは様ざまな苦労があった。あの大地の子で描かれた悲劇が
ここでもあった
8月19日、ソ連の潜水艦が出撃。22日の早朝、留萌沖で「小笠原丸」が
魚雷攻撃を受け沈没、約700人が死亡
「第2新興丸」は大破、667名も死亡者を出したが留萌港にたどり着く
「泰東丸」は約400名が死亡した。
24日には大泊港はソ連軍によって封鎖されまで、約220隻の船舶によって
77000人が北海道へ渡ったが、残された人々も多いという
樺太と千島の戦闘では、日本軍約3000名、民間人約3700名が戦死。
8月15日の無条件降伏の終戦後のことである。捕虜にされた樺太
約1万8千名、千島約5万名の日本人はシベリアに抑留された
(上)九人の乙女の碑。高石ミキさん(24)、可香谷シゲさん(23)
吉田八重子さん(21)、志賀晴代さん(22)、渡辺照さん(17)、高城淑子さん(19)、松橋みどりさん(17)、伊藤千枝さん(22)
沢田キミさん(18)の九名の若き乙女が殉職した
―碑文―
戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を
開始しようとした。
その時突如、日本軍との間に戦いが始また。戦火と化した真岡の町
その中で交換台に向かった
九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾の
さく裂、刻々・・・迫る身の危険いまはこれまでと死の交換台に向かい
「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……」
の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に
殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む
稚内、航空自衛隊北部航空方面隊のレーダー基地。東西冷戦の最中
1983年8月31日午後9時20分、大韓航空機007便はアンカレジを飛び立った
翌、9月1日未明、午前3時29分に稚内の航空自衛隊のレーダーから、
KE007便と見られる機影が消える
ここでの交信記録が防衛庁からアメリカに渡り、米ソの情報戦は激しさを増した
傍受能力の漏えいなどをめぐってアメリカ政府はシュルツ国務長官と
CIAで軋轢があったが、そのことは日本の防衛庁も同じ理由で、事件を明らか
にしたい外務省と対立した
アメリカ国務省は交信記録をもとに文字だけの場面で音声をテレビで流す
という方法で、9月6日ニューヨークの国連安保理で公表した
「ミサイル発射」「目標は撃墜された」約10分の録音記録であった
大韓航空のボーイング747型機はSU15、2機、ミグ23、1機によって
捕捉されミグの空対空ミサイルの攻撃を受けるのである
その2日後、撃墜から9日目モスクワでオガルコフ総参謀長による
記者会見で初めてソ連は撃墜の事実を認めた
日本人26名を含む16カ国、269名全員、
サハリン沖のモネロン(海馬)島の沿岸の冷たい
オホーツク海に沈んだのだった
2月3日は節分だった。本来は季節の始まりの前日をいう、立春、立夏、
立秋、立冬が季節の変わる日で、季節を分ける意味があるという
節分での豆まきは、宮中でずいぶん古来より行われていて、
やがて庶民にも浸透していった。
鬼は~外!福は~内!といって、大豆を炒った豆を撒く、
神社や寺院などでは飴やお菓子なども撒く。
落花生をつかうところもあり、雪で豆が見えなくならない
ようにするためだという
また一部では縄に柊(ヒイラギ)に鰯(イワシ)の頭を付けたものを門にかける
地域もある。柊のトゲトゲと鰯の頭の臭みでの邪気払いである
大阪などでは、恵方巻きなる海苔巻きを、丸かぶりする習慣がある。
切らずに、かぶりつくことでの縁を切らない、厄落とし・縁起担ぎの意味が
あるようだ。
毎年、縁起のいい方向が示され、今年は西南西だそうで、
この方向を向いてガブリ!
最近では便乗商売でさまざまな恵方巻きが出てきている。
ところで、鬼のパンツは虎柄だ。なぜか?陰陽道での十二支の方角で、
北東の方角が丑(ウシ)と寅(トラ)の方位が鬼門になるからで、
牛の角(ツノ)と虎の模様のパンツということだそうだ。
がソ連の潜水艦の魚雷攻撃で轟沈。1708名の死者、行方不明者がでる。
留萌沖には女性や子どもの死体が多く打ち揚げれ、そのなかにうごめいている
生存者もいたという。もうすぐ小樽、平穏な日がやってくると思った瞬間の魚雷
船底の幼子をあやす母親にいきなり、衣服もはがれた死体が振ってきたという
その後数年を経て、沿岸の人びとにより海底の泥に埋まる船内からの
遺体収容がおこなわれた
20日は真岡、いまのホルムスクの艦砲射撃、多くの沿岸は総攻撃を受けた
逃げ惑う住民にも機関銃が炸裂したという。いろいろなところで集団自決が
あった。また、真岡や大泊の港に向かう行軍で多くの年老いた人びとが尽きた
そしてその日、9名の若い交換手が「みなさん、これが最期です
さよなら、さよなら」といって自決
一方、千島では占守島で行われたソ連軍との大戦闘、8月18日に上陸
激しい戦闘の末、23日に終結。ソ連軍は日本軍を上回る多くの犠牲での
戦いだったという。その後日本兵はシベリアに抑留された
8月28日樺太が制圧、29日には太平洋戦争開始、真珠湾攻撃出航の
ヒトカップ湾のある、択捉島が占領。9月1日には国後島と色丹島に上陸
財産は接収され男はシベリアへ
残った人びとが本土を踏んだのは1947年だった
サハリンを取材したとき、樺太庁のあった豊原には旧拓銀の建物や大昭和製紙
の工場がそのままあった
今も残っている日本人も300名ほどいるという。強制などで連れてこられた
朝鮮族は帰還への乗船は許可されず、多くがサハリンに残る
終戦のとき、よき隣人だった朝鮮族を普通の人が包丁をもって襲う
ソ連に加担するといううわさがかけめくった。関東大震災や旧ユーゴでも
こういったうわさが駆け巡る
写真は金イマ子さん、72歳。島で55年、北真岡駅で電話の交換手をしていた
という。17歳で終戦、日本語が話せず苦労したという。捕まるからだといった
朝鮮人の家族に預けられた日本人の子どもも多いという
こういった方々が多く町の片隅にいた。なかにはかたくなに口を閉ざす人も・・・
そんななか、石油がでた。多くの商社などが事務所を設ける。飲み屋なども
多くなり、怪しげな店も・・・わたしも誘われ食事
今夜は・・・店にいたのはロシア人に混じって残留3世の朝鮮族・・・
写真は修羅場となった真岡、ホルムスク。バスターミナルでトマトなどを売る
金イマ子さん
先住民の女性、いわゆる土人。ウイルタ、ニブヒといった人びとがいたが
日本ではただの土人・・・(旧土人法もあった)
当時、ウイルタの13歳の少年が召集。15歳で戦犯でシベリア
12年の重労働のすえ、舞鶴に帰国。サハリンはかの地だ。母親を見ながら栄養失調で
27歳の生涯を終える
日本政府は今でも、樺太先住民に兵役法はなかった。として召集令状の無効と
軍事恩給の請求は却下している。
言葉と土地を奪われた人びとの思い、怒りは計り知れない。最期は列車での
ロシア人の女の子
(上)白雲から残雪の旭岳を望む
子どもたちもよく歩くようになると赤岳銀泉台からはよく白雲岳に登った。テントをもって泊まりもしたが、なにせ北海道の山には避難小屋しかないので寝袋と食料は持っていかないとならないし、水は水場、雪渓や湧き水を汲みにいく。今は管理費をとる避難小屋だが当時はなく、財布はクルマにおいていった。そしてクルマのキーはバンパーなどに隠す。カネを使うところがないことと、キーを落としたらたいへんだからだ。
今回、遭難のあったトムラウシは憧れの山だった。日帰りできないから・・・当時、友人とトムラウシのアタックを計画した。大雪山の縦走のたいへんだったのは上り口と下山が別だと、クルマを登山口におき、帰りは迎えに来てもらい、登山口のクルマは後日、回収に行かなくてはならない。旭川方面からのコースとしては層雲峡のさらに奥深く林道をはいる。洞爺丸台風で多くの木々が倒壊したことによる搬出で造られた道だ。
(上)沼の原からみるトムラウシ
1回目は濃いガスと霧雨で中止。2回目、別の友人にメシをご馳走するとだまし、早朝に友人とともに送ってもらった。林道は鎖で施錠されている。営林署に登山許可をだすと鍵の番号を教えてもらえる。急峻な登りでやっと沼の原だけど当時は木道がなく、泥だらけで歩いた。えんえんと五色ガ原を歩いてヒサゴ沼の避難小屋。
翌日は沼をあがった稜線にザックをデポ。サブザックに水筒、食料をもって頂上アタック。登頂後はさあたいへん。その日のうちに天人峡に下山、最終の旭川行きのバスに乗るのだ。わき目もふらずひたすら早歩きで尾根を行く。
しかし、今日のテレビでの報道には驚いた。中高年の登山ブームなんだなぁ・・・多くの登山者がいるものだ。遭難とは残念です。北海道にいた頃は、水が売っているとか営業山小屋がどんなものかも知らなかった。冬山もちがった。大雪山の冬はテントより雪洞が一般的だった。
(上)5月、まだ冬の大雪、層雲峡から黒岳を目指す
5月の黒岳から白雲岳の縦走、山岳会の仲間と行ったとき、猛吹雪のなか雪洞で春の高校野球の中継をラジオで聞いていた。6月の登山は雪渓が多く、靴も軽登山靴では濡れてしまう。夏でも雪が降る山で9月になると紅葉したところに冠雪・・・
(上)スキーにシールをつけて旭岳に登る。樹林帯におもしろい木を見つけた
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