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1945年8月22日旧樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」「第2新興丸」「泰東丸」
がソ連の潜水艦の魚雷攻撃で轟沈。1708名の死者、行方不明者がでる。

留萌沖には女性や子どもの死体が多く打ち揚げれ、そのなかにうごめいている
生存者もいたという。もうすぐ小樽、平穏な日がやってくると思った瞬間の魚雷

船底の幼子をあやす母親にいきなり、衣服もはがれた死体が振ってきたという
その後数年を経て、沿岸の人びとにより海底の泥に埋まる船内からの
遺体収容がおこなわれた

20日は真岡、いまのホルムスクの艦砲射撃、多くの沿岸は総攻撃を受けた
逃げ惑う住民にも機関銃が炸裂したという。いろいろなところで集団自決が
あった。また、真岡や大泊の港に向かう行軍で多くの年老いた人びとが尽きた

そしてその日、9名の若い交換手が「みなさん、これが最期です
さよなら、さよなら」といって自決

一方、千島では占守島で行われたソ連軍との大戦闘、8月18日に上陸
激しい戦闘の末、23日に終結。ソ連軍は日本軍を上回る多くの犠牲での
戦いだったという。その後日本兵はシベリアに抑留された

8月28日樺太が制圧、29日には太平洋戦争開始、真珠湾攻撃出航の
ヒトカップ湾のある、択捉島が占領。9月1日には国後島と色丹島に上陸
財産は接収され男はシベリアへ
残った人びとが本土を踏んだのは1947年だった

サハリンに残された人びと





















サハリンを取材したとき、樺太庁のあった豊原には旧拓銀の建物や大昭和製紙
の工場がそのままあった

今も残っている日本人も300名ほどいるという。強制などで連れてこられた
朝鮮族は帰還への乗船は許可されず、多くがサハリンに残る

終戦のとき、よき隣人だった朝鮮族を普通の人が包丁をもって襲う
ソ連に加担するといううわさがかけめくった。関東大震災や旧ユーゴでも
こういったうわさが駆け巡る

写真は金イマ子さん、72歳。島で55年、北真岡駅で電話の交換手をしていた
という。17歳で終戦、日本語が話せず苦労したという。捕まるからだといった
朝鮮人の家族に預けられた日本人の子どもも多いという
こういった方々が多く町の片隅にいた。なかにはかたくなに口を閉ざす人も・・・

そんななか、石油がでた。多くの商社などが事務所を設ける。飲み屋なども
多くなり、怪しげな店も・・・わたしも誘われ食事
今夜は・・・店にいたのはロシア人に混じって残留3世の朝鮮族・・・

写真は修羅場となった真岡、ホルムスク。バスターミナルでトマトなどを売る
金イマ子さん
先住民の女性、いわゆる土人。ウイルタ、ニブヒといった人びとがいたが
日本ではただの土人・・・(旧土人法もあった)

先住民族の女性




















当時、ウイルタの13歳の少年が召集。15歳で戦犯でシベリア
12年の重労働のすえ、舞鶴に帰国。サハリンはかの地だ。母親を見ながら栄養失調で
27歳の生涯を終える
日本政府は今でも、樺太先住民に兵役法はなかった。として召集令状の無効と
軍事恩給の請求は却下している。

ロシア人のおんなの子




















言葉と土地を奪われた人びとの思い、怒りは計り知れない。最期は列車での
ロシア人の女の子
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大雪山、旭川にいた頃は毎日眺めていた。山岳会にもはいっていたのでよく登った。幼い息子を背負っての旭岳から黒岳の日帰り縦走はしんどかった。

白雲から残雪の旭岳を望む





















(上)白雲から残雪の旭岳を望む

子どもたちもよく歩くようになると赤岳銀泉台からはよく白雲岳に登った。テントをもって泊まりもしたが、なにせ北海道の山には避難小屋しかないので寝袋と食料は持っていかないとならないし、水は水場、雪渓や湧き水を汲みにいく。今は管理費をとる避難小屋だが当時はなく、財布はクルマにおいていった。そしてクルマのキーはバンパーなどに隠す。カネを使うところがないことと、キーを落としたらたいへんだからだ。

今回、遭難のあったトムラウシは憧れの山だった。日帰りできないから・・・当時、友人とトムラウシのアタックを計画した。大雪山の縦走のたいへんだったのは上り口と下山が別だと、クルマを登山口におき、帰りは迎えに来てもらい、登山口のクルマは後日、回収に行かなくてはならない。旭川方面からのコースとしては層雲峡のさらに奥深く林道をはいる。洞爺丸台風で多くの木々が倒壊したことによる搬出で造られた道だ。
沼の原からみるトムラウシ




















(上)沼の原からみるトムラウシ

1回目は濃いガスと霧雨で中止。2回目、別の友人にメシをご馳走するとだまし、早朝に友人とともに送ってもらった。林道は鎖で施錠されている。営林署に登山許可をだすと鍵の番号を教えてもらえる。急峻な登りでやっと沼の原だけど当時は木道がなく、泥だらけで歩いた。えんえんと五色ガ原を歩いてヒサゴ沼の避難小屋。
翌日は沼をあがった稜線にザックをデポ。サブザックに水筒、食料をもって頂上アタック。登頂後はさあたいへん。その日のうちに天人峡に下山、最終の旭川行きのバスに乗るのだ。わき目もふらずひたすら早歩きで尾根を行く。

しかし、今日のテレビでの報道には驚いた。中高年の登山ブームなんだなぁ・・・多くの登山者がいるものだ。遭難とは残念です。北海道にいた頃は、水が売っているとか営業山小屋がどんなものかも知らなかった。冬山もちがった。大雪山の冬はテントより雪洞が一般的だった。

5月、まだ冬の大雪、層雲峡から黒岳を目指す


















(上)5月、まだ冬の大雪、層雲峡から黒岳を目指す

5月の黒岳から白雲岳の縦走、山岳会の仲間と行ったとき、猛吹雪のなか雪洞で春の高校野球の中継をラジオで聞いていた。6月の登山は雪渓が多く、靴も軽登山靴では濡れてしまう。夏でも雪が降る山で9月になると紅葉したところに冠雪・・・
スキーにシールをつけて旭岳に登る樹林帯に面白い木を見つけた

























(上)スキーにシールをつけて旭岳に登る。樹林帯におもしろい木を見つけた


広い広いユーラシア大陸に広がる大草原の緑と、大きな大きな宇宙に抜けるような青空。そんな大地を、むかしの人びとはウマで駆け抜けていった。紀元前、黒海周辺に最初の騎馬民族といわれるトルコ系民族スキタイの遊牧国家が誕生する。その後も、ユーラシアには匈奴、突厥といった遊牧騎馬国家が誕生しては滅んでいった。
13世紀にはモンゴル系遊牧国家、モンゴル大帝国がチンギス・ハーンによって誕生する。その大帝国の軍事訓練が始まりといわれている。モンゴルにとって最大の祭典「ナーダム」といわれている。
モンゴル相撲は、大草原が土俵になる。先に相手を倒したほうが勝ちで、技の数も多い。全国から力自慢が集まってくる








当初、この祭典は「エリン・ゴルバン・ナーダム(男の3つの祭典)」といわれ、男の祭典であった。しかし、現在では相撲以外、競馬、弓射には女性も参加する、国民の祭典になっている。
盛夏、大草原の緑が燃え盛る季節。社会主義時代の革命記念日の今日7月11日から3日間で首都ウランバートルをはじめ各県の郡や町や村など、数百ヵ所にもおよぶ会場で、一斉に「ナーダム祭」を行う。まあ独立というか建国は800年前だと最近は記念イベントをやってる・・・

弓射は男は75m、女は60m先の円筒の的を射る。モンゴルの人びとの眼はとてもよい。だから弓射の技術もたかい







世界各国からも、この祭典を見にくるために、中国の北京からモスクワ行きのシベリア鉄道で、北はバイカル湖のあるイルクーツクからの国際列車で、空路はベルリン、モスクワ、また日本の成田を経由してアメリカなど
からウランバートル郊外のチンギスハーン国際空港へ到着する。モンゴル航空のエアバスも満員となる。競技は競馬、モンゴル相撲、弓射の3種目で行われる。

競馬の主役は6歳から12歳の少年少女。競技前、ゴールとなる会場をパレードし、約30キロ彼方のスタート地点まで向かう。モンゴルの子どもたちは、幼い頃に自分の子ウマが与えられ、ウマとともに育つもので・・・
最近は都市部ではウマに乗れないモンゴル人も多いけど・・・
日頃の腕が競われるのだから、親たちも我が子の活躍に歓声をあげる。やがて、地平線から砂煙が見え、蹄の音が響いてくるとゴール近くに集まった観衆たちはどよめき、興奮は絶頂に達する。モンゴル相撲は、大草原が土俵になる。先に相手を倒したほうが勝ちで、技の数も多い。全国から力自慢が集まってくる。
日本でも近年、モンゴル出身力士の活躍が目覚しい。勝者は国民の英雄となる。

地平線から砂煙が見え、蹄の音が響いてくるとゴール近くに集まった観衆たちはどよめき、興奮は絶頂に達する










弓射は男は75m、女は60m先の円筒の的を射る。モンゴルの人びとの眼はとてもよい。だから弓射の技術もたかい,、かつて、草原の戦闘などで使われた技術は競技として残っている。勝者をたたえる歌が大地に響きわたり、、モンゴルの夏、草原の恵みというべき、新鮮なウマのミルクで醸られた「アイラグ」という馬乳酒が振る舞われる。こうしてモンゴル、北の大地の短い夏を人びとは思う存分楽しむのである
 

シルクロードの果物には欠かせないのがイチジクだ。日本には1630年に当時の日本の唯一の貿易港、長崎に上陸する。
漢字では「無花果」と書く。原産地は遠くアラビア南部らしい。花がないと書くのはいきなり実をつけるように思われるからで、わたしも不思議に思い調べてみた。
花の見えない無花果、ウズベキスタンの市場のイチジクの砂糖漬け








  (上)花の見えない無花果、ウズベキスタンの市場のイチジクの砂糖漬け
本来は雄と雌の株があり、雄の花嚢(かのう)のなかにはイチジクコバチという蜂が共生していて種子は幼虫に食べられてしまう。やがて羽化して花粉を持って雌の花嚢(かのう)に受粉して果嚢(かのう)、果実となる・・・しかし、日本ではみな挿し木で雌の株しかないということだ。
ウズベキスタンの市場には砂糖漬けのイチジクが売られていた。葉は当然、イチジクのはである。とてもおいしい!我が家の庭のイチジクにも実がついてきた。

友人のガンゾリグ君と故郷を話しをした。彼は父親がブリヤート族で
母親はホトン族。父の部族名を名乗るから彼はブリヤートとなる

ゲルの組み立て













狩猟関連の仕事だったためモンゴルの西、ホブド県に住んでいたのだ
父親の故郷は北のボルガン県のティシクという町の郊外の草原で
ブリヤート族が多く住む

ゲルのなか、乳製品造り











母親はホブド市郊外の山の上。彼に故郷はと聞くとホブド市の病院と答えた、
なるほど

モンゴル国内を一周する3000kmを越す周回コースを何度回ったか…
ちゃんとした地図がなく遊牧民のゲルを見つけては道を聞いた
聞いているとお茶を飲んでください、と言われなかに、そのうち
料理が出てきて、酒が出てくるシミアルヒといって発酵乳を蒸留して造る
17~18度の透明な酒で程よい酔い心地がいい

ソタイ山、オトコンテンゲル山どとちらもモンゴルを代表する山











結局、そのゲルに泊めてもらうことになる。朝は搾乳からはじまりおかげで
いい写真がたくさん撮れるし、遊牧文化についても学べた

しかし、携帯型のGPSを持っていくようになったり、精密な地図を手に入れて
からは夜、暗くなっても走れるようになり村などに着き、安宿を見つけて泊まり、
食事は安食堂で済ませるようになり目的地には早くたどり着けるが、
途中の楽しみはなくなってきた。特にシミアルヒは売ってはいないので飲めない

ホブドまではゴビ沙漠をすすみアルタイ山脈にそって走るが、3日はかかる
大きな町は舗装道路があるから走っていてガタガタ道がいきなり
舗装になると町が近い証拠だ。
また暗いなか走っているときは地線に町明かりが見えはじめる
やった!思わず声が出る
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