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ある日、編集プロダクションから「ウズベキスタンに行ってくれないか?」と電話があった。いやいやいちばん行きたいところだった。行きます!
ソ連の崩壊後、独立した国々でも大きな国家で、国営の航空会社が当時、名古屋からチャーター機を出していた。

中央アジアの女性の化粧である。眉を左右つなげて描く。若者はロシア人もいてその様相はさまざまだ











(上)中央アジアの女性の化粧である。眉を左右つなげて描く。若者はロシア人もいてその様相はさまざまだ


9時間、西行きは陽が暮れない。着くところはタシュケントである。今回はミュージックフェスタブルなるイベントのプレスで特別扱いだった。しかし、つぎにガイドブックの取材で行かされたときは・・・パキスタン航空のマニラ経由、カラチ行きだった。カラチのシェラトンの冷蔵庫にはノンアルコールのビールしかない。深夜に着いても、早朝5時には空港だ。2時間しか休めなかった!シェラトンで。

ロシア帝国からソ連、また中国の王朝から現代中国によるトルキスタン文化圏である
























(上)ロシア帝国からソ連、また中国の王朝から現代中国によるトルキスタン文化圏である
イスラマバードやラホールなどを経由してやっとタシュケントに着いたが、何と厳しい荷物チェックだ。「何が目的で来た(ロシア語)」「取材やぁ!」「外務省の許可証は!(ロシア語)」「知るかい!」まぁ、いろいろな国で・・・それも旧共産圏で体験しました経験で根性比べになりまして、迎えに来たツーリスト会社のひと、日本いるウズベク人の家族のひとがガラス越しでこちらを見ています。なにやら言ってくれます。やっと、パスポートを渡され開放でした。
強制移住による朝鮮族も4世にわたる。店にはロシア人も多い。問題は言葉でまさしく混在の会話だそうだ











(上)強制移住による朝鮮族も4世にわたる。店にはロシア人も多い。問題は言葉でまさしく混在の会話だそうだ

その日は、日本にいるウズベク人の家族の家に招待され、大歓迎!近所にお住まいの朝鮮族の方がキムチなどの料理を振舞っていただき歴史を感じました。ポロフやシャシャリクなどもおいしかったですね。

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アルメニアの首都イェレバン郊外の村で農業を営むアグバンさん。
アルメニア、トルコ領となったアララト山を望みながら葡萄を栽培するアグバンさん











聖山アララト山の麓だが、山の手前にトルコとの国境がその手前にある。
カフカス地方は葡萄栽培の発祥の地といわれ、ワインや蒸留して
極上のコニャークを生み出す

かつてイギリス首相チャーチルをもうならせたアルメニアコニャーク











(上)イェレバンのホテルのバー、誇らしげにアルメニアコニャークを掲げる
イギリスの首相だったチャーチルも絶賛したという。

グルジア。シルクロードの定番、串焼き肉シャシャリク、水餃子ヒンカリ、モンゴルと食べ方は同じだった。葡萄の皮で作ったウオッカ、チャチャ





















(中)シャシリク、串焼き肉だ。やはりカフカス地方からユーラシアに広がる
トルコではカバブ、串焼きはシシュケバブ。それに対してドネルケバブがある

(左)グルジアの郷土料理、ヒンカリ。何のことない水餃子だ
食べ方はモンゴルと同じで肉汁をすすりながらかぶりつく
シルクロードの食文化交流か・・・

(右)やはり葡萄だ。葡萄の皮を原料とした蒸留酒チャチャ。40度以上はある
また、葡萄の産地ならではの種を圧搾したグレープシードオイルもある
食物繊維やビタミEも豊富で、コレストロールもゼロということもあり、
注目されている

グルジアはワイン発祥の地といわれる。古代の住居のワインを作るための器具












考古学博物館の古代の家屋にある葡萄酒をつくるための木枠。
ここに収穫した葡萄を入れ、家族みんなで踏み、その果汁が地中の壷の穴の中
にはいっていく  (右)再現された地中の壷である 

グルジア名物、チュルチヘイラ。葡萄の汁を固め、広げた。ナッツが入ったものもある











葡萄の汁を乾燥させたチュルチヘイラ。ナッツを入れたものもある
甘すっぱくおいしい。グルジア名物だがアルメニアにもあった 

中央アジア、ウズベキスタン共和国。サマルカンドのアフラシャブホテルの
プレスセンターのレストランは果物であふれている。メロン、スイカ、ブドウ・・・
などなど太陽の恵みだ。通信社と新聞社の外信部の記者と三人何も言わず
ただ無心に食べた

ウズベキスタン、サマルカンドの市場、シャシャリク、イチジクの砂糖漬け、各種スパイス







 



(上)ウズベキスタン、サマルカンドの市場。串焼き肉シャシリクはシルクロード
名物、トルコではケバブ、またシシカバブも同じだ。スパイスは東西交易の
大切な商品、無花果(イチジク)の砂糖漬け。イチジクは木にいきなり実を
つける。花は目立たない漢字のとおり花無しの果実という言い方も納得できる

ユーラシアは太古から肥沃な大地と太陽の恵み、遥かなる山岳地帯からの
豊かな水によって古代より、さまざまな作物を果実が作られてきた
乾燥果実の生産も盛んになる。その代表が、干しぶどうである

そして東にも、新疆ウイグル自治区でも干しぶどうつくりは盛んだ

おもしろいことにモンゴルでははじめて見たのが干しぶどうだったのか
本来の葡萄を「水の葡萄―オサン(オッスン=水) ウゼム(ウイグル語で葡萄)
水の葡萄」という

シルクロードのトルファンは葡萄の産地だ。乾燥した気候を利用して干しぶどう作りか盛ん










(上)新疆ウイグルからの茨城大学の留学生。オスマンさんが興した
シルクロードグリーンレーズン。トルファンの気候は葡萄栽培、さんさんと
降り注ぐ太陽によっておいしい干しぶどうが出来上がる
NHKの最初に放送した「シルクロード」でも干しぶどうを干すシーンが
印象的だった

シルクロードグリーンレーズン    http://www.srgr.co.jp/

唐代の詩人、王翰(おうかん)が夜光杯を詠い込んだ漢詩「涼州詞」

  葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催 
酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回 

西域から入ってきた葡萄酒、粋な夜光杯で飲む
しかし、馬に乗り琵琶を弾くような殺伐として
酔って砂漠の戦場で寝てしまっても笑わないでくれ
昔から戦場に行き、何人帰ってきたことか

チャンネルJで中国文学者、桜美林大学名誉教授の石川忠久先生の
解説が動画で見られる。
http://www.channelj.co.jp/culture/hobby_culture/chinese_
poetory/movies/kanshi_ryoshu_j_091205.html


涼州詩に詠われた夜光杯

 






















(上)夜光杯
その西域より伝わった葡萄酒、ワインはグルジアが発祥といわれる
カスピ海や黒海周辺では紀元前8000年くらいから葡萄が栽培されていたという
醸造しワインも生まれた。地中海交易によってエジプトやローマにも伝わった

葡萄は日本では中国から伝わり鎌倉時代に現在の山梨県甲州市(勝沼)
で栽培が始められた。現在でも日本一の産地だ。日本語の葡萄という名は
ペルシャ語のバーデから来ているという話と現在、ウズベキスタンの
フェルガナ地方で「ブーダウ」と呼んでいたのが由来という話があるそうだ

ウズベキスタン国内に黒い帽子という自治国があるという。カラカルパクスタンである
アルタイ山脈のカザフ族の遊牧民を取材したとき、被っているのはカルパク帽

その後、モンゴルの草原はチュルク(トルコ)系遊牧民が支配する突厥の時代がつづく
しかし、唐との抗争で西突厥と東突厥にわかれ国力が失われた。
西突厥は滅ぶが王、ビルデ・カガンの弟キョル・デギンの勇敢な戦いで東突厥は再興、
第二突厥時代をむかる。

突厥の武将、キョルデキンが唐との和解に建てた碑でトルコ政府とモンゴル政府による共同の補修作業









(上)突厥の武将、キョルデキンが唐との和解に建てた碑
トルコ政府とモンゴル政府による共同の補修作業

草原にたつ碑文には片面に漢文、片面に突厥文字で和解が記された。
しかし、突厥文字では「柔らかい絹や甘い言葉に惑わされずに留まれ」
と刻まれていた。7世紀、モンゴルが興る500年も前のことである。


(下)突厥時代の石人とカルパク帽
突厥時代の石人とカルパク帽





















さて、その後は同じチュルク(トルコ)系の遊牧騎馬民族ウイグルによって
モンゴル草原は支配される。
オルホン河の渓谷にホショー・ツァイダムに「カラバルガス」といわれる
城郭を造る。「カラ」である。モンゴルが興り、首都をおいたのもこの60km
ほどはなれたところであった。

多くの騎馬民族が駆け抜けた大地






















(上)広大なユーラシア大陸

中央アジアではカラハン朝が興る。やはりチュルク(トルコ)系である。
また契丹(キタイ)人が西遼(カラキタイ)を興すなど攻防がくり広げられた。
キタイとは鉄を意味し、まさに黒い鋼鉄だ。

(下左)ユーラシアに点在する石塔。紀元前人類最初の騎馬遊牧国家スキタイ
のものと思われる鹿石また円形に囲ったヒルギスフールも各所に見られる
(下右)ユーラシアに君臨したチュルク国家「突厥」の建てた石人、
また石を並べたバルバルといわれるものもある
ユーラシアの広大な大地とユーラシアに点在する石塔、紀元前の騎馬国家スキタイのものと思われる鹿石、チュルク系遊牧騎馬国家突厥の石人











さらに、西に行こう。カスピ海の西、アルメニア高原。紀元前から
大アルメニア王国があり紀元301年世界で初めてのキリスト教国家となった。
その後がたいへんだ。ローマ帝国、今のイラン、ササーン朝ペルシャ。
イスラム王国セルジューク朝、モンゴル、テムール朝に攻められ
支配され、
10世紀にはディアスポラ、いわゆるユダヤ人のように多くの人々は
離散してしまう。
ドイツの指揮者カラヤン、ロシアの作曲家ハチャトウリアン、ミグ戦闘機の
設計者ミコヤンなどヤン、アンとつく名前はおおむねアルメニア人だ。

(下)イェレバン郊外リプシマ教会
(右上)ナゴルノ・カラバフでの戦闘での戦死者の墓 
(右下)アルメニアの子どもたち
イェレバン郊外ピプシマ教会、ナゴルノ・カラバフでの戦闘での戦死者の墓、アルメニアの子どもたち

 



























この国をさらに襲ったのは19世紀後半から20世紀初頭に占領していた
オスマントルコ帝国による大虐殺だった。
その数は150万人ともいわれる。しかし、トルコは革命の混乱と称し、
アルメニアはホロコースト(組織的大虐殺)だと主張する。

その後のアルメニアはソ連に組み込まれてしまう。1991年ソ連崩壊、
隣国アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ州のアルメニア人たちは分離独立
を求めて激しい戦闘となり、2万人の戦死者と100万人を超す難民を出した。
今も、停戦合意は平行線だ。
アルメニア人は世界各国に強力なコミュニティを持つ。その援助のもと
強大な軍事力で地域を圧倒する。周囲のイスラム諸国からは経済封鎖
されてももろともしない。もうひとつのイスラエルである。

カラバフの「カラ」もちろん黒である。
「カラ」 黒 はチュルク語か・・・モンゴル語で黒は「ハル」である。

(下)1915年4月、オスマントルコ帝国。トルコ軍兵士に連行されるアルメニア人
多くのアルメニア人が財産を奪われ、殺戮された
1915年4月トルコの兵士によって連行されるアルメニア人













1939年9月ドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が始まる。
その一月前、ヒトラーはドイツ軍将校の前でこう演説する。
「アルメニア人絶滅のことを今、誰が口にしようか!」 

1991年のソ連崩壊によって独立を果たしたウズベキスタン。
19世紀にロシア帝国に征服され、その後ソ連邦に組み込まれた。
特に13世紀のモンゴル軍による攻撃では壊滅的な打撃をうけた。
モンゴルを長く取材していたわたしにとってなんともいえない思い出の取材
だった。まぁ、日本も元寇、文永の役、弘安の役と二度も襲来に会ってはいる


同じ時期、ヨーロッパではキリスト教の十字軍とイスラム諸国とのあいだで
聖地エルサレムを巡る抗争が激化していた。
イラク戦争やアフガン攻撃ではブッシュ大統領が十字軍発言をして物議を
かもし出している。
グルジアを取材したときもジュワリ峠には十字架がたち、これより異教徒の
土地とあった。カフカスのイスラム諸国のことである。そんな、ヨーロッパの
キリスト教徒にとって救世主の伝説が広がった。

それが、幻の救世主「プレスター・ジョン」である。

十字軍がエジプトを攻撃したとき和解に応じず、幻の救世主の到来を信じ、
無謀な戦いで大敗した。
どうして救世主なのか、当時ヨーロッパに聞こえてきたのは中央アジアの
イスラム国家ホラズム王国のブハラ、サマルカンドといった都市を破壊して
いったことによるといわれる。

プレスタージョン、首都カラコルム、モンゴル軍に攻撃されたグルジアのナリカラ要塞跡

 




















(左)プレスタージョンの肖像画 (右上)モンゴルの首都カラコルム。
銀の木といわれる中心からはワインが湧き出ている。モンゴルの紙幣には
この絵が描かれている
(右下)グルジア、首都トビリシにあるナリカラ要塞跡。13世紀、モンゴル軍
による攻撃を受けた

その後、キリスト教国家グルジアも攻撃を受けるが、カトリックではなく
東方正教だとして無視される。

そう、幻の救世主の正体はモンゴル帝国、チンギスハーンだったのである。
救世主と信じた謎の軍団は十字軍が戦う中東には現れなかったのである。
1241年4月、ポーランドはレグニツァ(ドイツ語でリーグニッツ)の草原・・・
モンゴル軍は東ヨーロッパの都市を破壊しやがて冬、凍結したドナウ河を
渡りハンガリーに攻め込んだ。


(下左)レグニツァの戦いはワールシュタット会戦ともいう。
ポーランド軍のおびただしい戦死者、ワールシュタットは死体の山を意味する
(下左)レグニツァの戦いに臨み戦死したポーランド王国ヘンリク2世

ワールシュタット会戦、レグニツァ.ワールシュタットの戦いに臨み戦死したポーランド王国ヘンリク2世















1245年、カルピニ修道士が当時ヨーロッパでいわれいたタルタル軍
その指揮官バトゥに会いに行く。そこで大ハーンのことを知り、
1年以上かけカラコルムに着いた。
そして初めてモンゴルを知り、大ハーンとの面会を許された。
カルピニはここで驚愕した。ハーンの横につく二人の行政官はなんと
キリスト教徒だった。

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写真家
自己紹介:
カメラ片手にユーラシアを放浪する写真家
国内では農業をはじめ
産業を撮っています
さまざまな地域を
取材しました
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