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中央アジア、ウズベキスタン共和国。サマルカンドのアフラシャブホテルの
プレスセンターのレストランは果物であふれている。メロン、スイカ、ブドウ・・・
などなど太陽の恵みだ。通信社と新聞社の外信部の記者と三人何も言わず
ただ無心に食べた
(上)ウズベキスタン、サマルカンドの市場。串焼き肉シャシリクはシルクロード
名物、トルコではケバブ、またシシカバブも同じだ。スパイスは東西交易の
大切な商品、無花果(イチジク)の砂糖漬け。イチジクは木にいきなり実を
つける。花は目立たない漢字のとおり花無しの果実という言い方も納得できる
ユーラシアは太古から肥沃な大地と太陽の恵み、遥かなる山岳地帯からの
豊かな水によって古代より、さまざまな作物を果実が作られてきた
乾燥果実の生産も盛んになる。その代表が、干しぶどうである
そして東にも、新疆ウイグル自治区でも干しぶどうつくりは盛んだ
おもしろいことにモンゴルでははじめて見たのが干しぶどうだったのか
本来の葡萄を「水の葡萄―オサン(オッスン=水) ウゼム(ウイグル語で葡萄)
水の葡萄」という
(上)新疆ウイグルからの茨城大学の留学生。オスマンさんが興した
シルクロードグリーンレーズン。トルファンの気候は葡萄栽培、さんさんと
降り注ぐ太陽によっておいしい干しぶどうが出来上がる
NHKの最初に放送した「シルクロード」でも干しぶどうを干すシーンが
印象的だった
シルクロードグリーンレーズン http://www.srgr.co.jp/
唐代の詩人、王翰(おうかん)が夜光杯を詠い込んだ漢詩「涼州詞」
葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回
西域から入ってきた葡萄酒、粋な夜光杯で飲む
しかし、馬に乗り琵琶を弾くような殺伐として
酔って砂漠の戦場で寝てしまっても笑わないでくれ
昔から戦場に行き、何人帰ってきたことか
チャンネルJで中国文学者、桜美林大学名誉教授の石川忠久先生の
解説が動画で見られる。
http://www.channelj.co.jp/culture/hobby_culture/chinese_
poetory/movies/kanshi_ryoshu_j_091205.html
(上)夜光杯
その西域より伝わった葡萄酒、ワインはグルジアが発祥といわれる
カスピ海や黒海周辺では紀元前8000年くらいから葡萄が栽培されていたという
醸造しワインも生まれた。地中海交易によってエジプトやローマにも伝わった
葡萄は日本では中国から伝わり鎌倉時代に現在の山梨県甲州市(勝沼)
で栽培が始められた。現在でも日本一の産地だ。日本語の葡萄という名は
ペルシャ語のバーデから来ているという話と現在、ウズベキスタンの
フェルガナ地方で「ブーダウ」と呼んでいたのが由来という話があるそうだ
ウズベキスタン国内に黒い帽子という自治国があるという。カラカルパクスタンである
アルタイ山脈のカザフ族の遊牧民を取材したとき、被っているのはカルパク帽
その後、モンゴルの草原はチュルク(トルコ)系遊牧民が支配する突厥の時代がつづく
しかし、唐との抗争で西突厥と東突厥にわかれ国力が失われた。
西突厥は滅ぶが王、ビルデ・カガンの弟キョル・デギンの勇敢な戦いで東突厥は再興、
第二突厥時代をむかる。
(上)突厥の武将、キョルデキンが唐との和解に建てた碑
トルコ政府とモンゴル政府による共同の補修作業
草原にたつ碑文には片面に漢文、片面に突厥文字で和解が記された。
しかし、突厥文字では「柔らかい絹や甘い言葉に惑わされずに留まれ」
と刻まれていた。7世紀、モンゴルが興る500年も前のことである。
(下)突厥時代の石人とカルパク帽
さて、その後は同じチュルク(トルコ)系の遊牧騎馬民族ウイグルによって
モンゴル草原は支配される。
オルホン河の渓谷にホショー・ツァイダムに「カラバルガス」といわれる
城郭を造る。「カラ」である。モンゴルが興り、首都をおいたのもこの60km
ほどはなれたところであった。
(上)広大なユーラシア大陸
中央アジアではカラハン朝が興る。やはりチュルク(トルコ)系である。
また契丹(キタイ)人が西遼(カラキタイ)を興すなど攻防がくり広げられた。
キタイとは鉄を意味し、まさに黒い鋼鉄だ。
(下左)ユーラシアに点在する石塔。紀元前人類最初の騎馬遊牧国家スキタイ
のものと思われる鹿石また円形に囲ったヒルギスフールも各所に見られる
(下右)ユーラシアに君臨したチュルク国家「突厥」の建てた石人、
また石を並べたバルバルといわれるものもある
さらに、西に行こう。カスピ海の西、アルメニア高原。紀元前から
大アルメニア王国があり紀元301年世界で初めてのキリスト教国家となった。
その後がたいへんだ。ローマ帝国、今のイラン、ササーン朝ペルシャ。
イスラム王国セルジューク朝、モンゴル、テムール朝に攻められ支配され、
10世紀にはディアスポラ、いわゆるユダヤ人のように多くの人々は
離散してしまう。
ドイツの指揮者カラヤン、ロシアの作曲家ハチャトウリアン、ミグ戦闘機の
設計者ミコヤンなどヤン、アンとつく名前はおおむねアルメニア人だ。
(下)イェレバン郊外リプシマ教会
(右上)ナゴルノ・カラバフでの戦闘での戦死者の墓
(右下)アルメニアの子どもたち
この国をさらに襲ったのは19世紀後半から20世紀初頭に占領していた
オスマントルコ帝国による大虐殺だった。
その数は150万人ともいわれる。しかし、トルコは革命の混乱と称し、
アルメニアはホロコースト(組織的大虐殺)だと主張する。
その後のアルメニアはソ連に組み込まれてしまう。1991年ソ連崩壊、
隣国アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ州のアルメニア人たちは分離独立
を求めて激しい戦闘となり、2万人の戦死者と100万人を超す難民を出した。
今も、停戦合意は平行線だ。
アルメニア人は世界各国に強力なコミュニティを持つ。その援助のもと
強大な軍事力で地域を圧倒する。周囲のイスラム諸国からは経済封鎖
されてももろともしない。もうひとつのイスラエルである。
カラバフの「カラ」もちろん黒である。
「カラ」 黒 はチュルク語か・・・モンゴル語で黒は「ハル」である。
(下)1915年4月、オスマントルコ帝国。トルコ軍兵士に連行されるアルメニア人
多くのアルメニア人が財産を奪われ、殺戮された
1939年9月ドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が始まる。
その一月前、ヒトラーはドイツ軍将校の前でこう演説する。
「アルメニア人絶滅のことを今、誰が口にしようか!」
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